コミュニケーションについての雑感-25
アニメ・ドラマ・マンガなどでも人間・人生を学べる 
 


この雑感シリーズも今回で25回目。一つの節目としての回です。

今私はあと数ヶ月で63歳になりますが、現在放送中の深夜アニメでも日々の生き方のヒントや、上原輝男先生の心意伝承などに関する考察の題材を得たりしています。そういう意味では、早送り再生で細かいところをとばしてみるなんてもったいない。
学びなんていうのを別にして、純粋に楽しむ上でも丁寧にみてほしいし、何か感じるものがあったら繰り返しみてほしいですね。

(知人の若者の中には私など足元にも及ばないくらい気に入ったアニメについてあらゆる情報まで得て何年も考察し続けている人もいます)

みなさんお忙しいからそんな丁寧にはみていられないという事情もあるのでしょうけど、これぞと思った作品はやっぱり繰り返し味わってほしいものですね・・・・余計なおせっかいですが(笑)



随分前になりますが、学校の国語が大キライという中学生や高校生を何人も家庭教師でみていたことがあります。国語どころか活字を読むのも大キライだと。でもアニメやマンガなら好きでみていると。

おうちの方々が「学校のテスト対策はあとまわしでもいいですから、とにかく学ぶ楽しさをもってほしいんです」という考えで私への依頼だったので、そこはバカ正直に思ったように実行させて頂きました。

そういう若者たちは自ら望んで家庭教師というのはまずないんですよね。だから初対面の際にほとんどこちらには目も向けてくれません。で、好きなアニメやマンガなどは何なのかと聞くわけです。時には部屋の中の本棚やフィギュアなどを参考にしてこちらからふることもあります。

意外な顔はされますね・・・・「勉強はちゃんとしなけばいけないよ」というようなことをさんざん言われると思っていますから。

そうしたことの詳細はコミュニケーション雑感とは離れてしまうので、別の機会にしますが、早い話が、そこで話題になったアニメなどを教材として使っていくわけです。

何も学校の先生ではないですから、検定教科書を教材として使う義務を私はおっていません。本来のいみでの「教材」を選べるわけです。だから人間について深く学んでいく・・・その目標のためには、別に教科書とか文学作品でなくたっていいだろう、という発想です。



私が何かを教え込むというのではなく、自由トークのような形で本音の意見をだしてもらいながらやりとりしていると、そのやりとりそのものがまずコミュニケーションになっていくわけです。そして話が盛り上がっていけば対話が楽しくなってくる。

かつては同年代の仲間同士、長時間バカ話をしたり、時には真面目に人生をかたりあったりというのをやっていた若者達が普通にいっぱいいいました。そうしたことが、仮に学校は嫌いだった場合でも、ちゃんと人生を生きていく力を会得するのを補完していたんですね。

考えてみれば明治初頭に学制が発布されても、本当に多くの国民が学校に通うようになるのはずっとずっとあとのこと。
江戸時代までは庶民みんなのための学校なんてそもそも存在しなかった。
それでも開国して海外から日本にやってきた方々を驚かせるような生活意識や独自の文化をもっていた・・・・学校教育など受けてもいない江戸庶民などにも相当驚いたという記録がいろいろと残っているようですね。

*寺子屋教育は行われていたといっても今の学校のシステムとはかなり違っていたといいます。その秘密も探求したいものです。

ちなみに、そうしたアニメなどで人間について考えるのを面白がるようになった若者たちは、特にテスト演習のようなことをしなくても学力テストなどの成績がめにみえて上がりましたね。

中には、活字大キライだったはずなのに、アニメ原作のラノベを次々と読破するようになって、学力テストの物語文などが得意になったというケースもありました。




ここでアニメなどを教材にということで最近のアニメでもったいないな・・・と思うことにもふれておきます。それは

・放送話数の問題 さらには 尻切れトンボの最終回の問題 や アニメ二期三期までの期間 の問題です。


特にここで問題にしたいアニメは「物語が進んでいく」というタイプでの「話数」のことです。

言うまでもなく、今の深夜アニメはほとんどが1クール(12話程度 3か月の放送)で最終回をむかえます。
だから非常に展開が早い。

よくえいば簡潔明瞭なのですが、悪くいえば、人間の感情や他人との葛藤などが丁寧に描かれていない。
何か登場人物が壁にあたってもわりと簡単に乗り越えて次に話がいきます。

登場人物に関しても新キャラが次々とでてきても全12話ですからほりさげている暇などないですよね。
そしてあっという間に最終回。
その最終回も、一応筆区切りついたな、と感じられるのもあれば、業界の事情なのでしょうか・・・ものすごく中途半端なところで終わるのも少なくないですね。あたかも普通に来週続きがあるようなところで最終回・・・そして俗にいう「円盤の売り上げ」が少なかったからそれっきり続きは作られない、というのが多いです。
仮に続きがつくられても、間が数年、中には10年近くたってとか・・・観ていた人も前の話を覚えていないとか、もうアニメは卒業してしまっているとか・・・そんな実情です。


けれどもそれが今の若者たちの意識のリズムには合っているのでしょう。
最近では2クール(24話程度、半年の放送)だと長くてまだらっこしくて観ていられない、という声もよくききます。


私が懸念を抱くのは、そうしたことによって心の中に形作られる「人間関係」とか「生き様」とか「人生」のイメージが薄っぺらくなってしまうということです。簡単に乗り切れる、苦労のほとんどない人間関係や日常、という方が標準というイメージになってしまう。

その上何かあっても「簡単にのりかえられる方法をすぐに知る事ができる」と思い込まされているわけです。日常でも人生でもすぐにスマホ検索して解決方法を調べる・・・解決方法が載っていなかったり、めんどくさそうな方法だったら、さっさと諦める、という若者もめだっていると思います。

別稿ではすぐに結果が出せた子が評価されるという長い間の学校教育による刷り込みが大きな原因ではないかと書きましたが、もうひとつにはこうした好きなアニメなどでの簡潔明瞭な描かれ方にもあるのかもしれないと思うんです。




別に昭和讃美というわけではないのですが、たとえば私が小学生だったころに多くの子がみていたスポ根系のアニメの話数ですが


アタックNo.1  1969年12月7日 - 1971年11月28日 全104話

タイガーマスク 1969年10月2日 - 1971年9月30日 全105話
 
巨人の星  1968年3月30日 - 1971年9月18日 全182話

でした。
これらのアニメはたとえばサザエさんとかアンパンマン等々のように毎回独立したエピソードで続いているのではありません。これはずっと物語が続いての話数です。


☆重ねて強調しておきます。
今の1クール中心のアニメを否定しているわけではありません。私も十分に楽しめている作品も多いですから。また和数が少なくてもあるテーマに関して非常に深く掘りさてていて感銘を受ける作品も少なからずあります。

このコミュニケーション雑感で取り上げているわけですから、今回問題にしたいのは、アニメの内容云々ではなく、それがいつのまにかコミュニケーション能力などに与えている影響について考えたいわけです。
昭和アニメとの比較が中心となりますが、それも作品の優劣を評価しようという意図ではないこと、ご了解ください。



そうすると単に物語の展開が丁寧に描かれているというだけではありません。
それぞれの登場人物の過去のエピソードが丁寧に描かれる回がふんだんに盛り込まれたり、何か壁にぶちあたった時の解決へのプロセスがそれはそれは丁寧に描かれるわけです。場合によってはそれだけで今のアニメの1クール文の話数をつかって。

巨人の星などは、大事な試合については、主人公と打者との葛藤が延々と描かれていて、1回の放送で1球しか投げなかった、というのもありましたね。

今みたらまだらっこしくて観ていられないかもです(笑)

でも逆にいえば、たった一球投げるさいにも多くの葛藤などが心の中に渦巻く。
人生思い通りになどいかないことだらけ、理不尽なこともいっぱいある・・・敵対同士が和解して深い友情に結ばれるなんていうことにも大変な努力があってのことなんだ、ということが長いプロセスから小学生なりに感じとれたわけです。

「人生ってそういう大変さがあるんだな・・・・でもそれを何とかして乗り越えると、その先に大きな喜びがあるんだな」というような「人生観」が学べたと思います。

青春ドラマなんてまさにそうですね。仲間同士のトラブル、教師と生徒がわかりあえない・・・でも熱血教師がなりふりかまわず向かい合い続けた結果、互いの信頼関係が気付けて・・・という姿に感動して、憧れて、実際に高校の先生になった、なんていう若者もけっこういた時代です。


その風向きが昭和の後半頃からでしょうか・・・大きくかわってきました。
高度経済成長などが一区切りついて、みんなが「中流意識」も持った時代あたりですかね。
いい学校やいい会社を目指してガムシャラに勉強する、スポーツにとりくむ、働く・・・そんな努力しなくても、そこそこの人生は送っていけるよ・・・という空気。

一時期は若者たちが感動して憧れた青春ドラマが「お笑いのネタ」になるようになりました。
CMなどでも「のんびりいこうよ・・・」風のが増えました。


(参考)昭和のモーレツ社員っていうのと今のブラック企業っていうのはだいぶ違うものと私は感じています。
当時の企業は基本的に「終身雇用」。よほどのことがなければクビにはならないし、当たり前のことをきちんとやっていれば、給料も年功序列で上がっていく。そして大企業だったらそれなりの退職金をもえあえて老後の生活保障もバッチリ。そういう見返りがちゃんとあった・・・相互間系があったわけです。
(企業によっては、大企業であっても 家族 というような共同体意識があったともきいています)


そんなイメージだったから多くの人達ががんばって勉強していい会社にはいって・・・ってやっていたのだと思います。老後もふくめた安定した人生を手に入れるために。

今のブラック企業は、そうした社員の生活などどうでもいいというのが違います。さんざんこきつかって、都合が悪ければ簡単に切り捨てる。従業員をただの部品としか思っていない。従業員のことも、その家族の生活も一切かんがえないで、トップの利益ばかり考えているわけですからね。




簡潔明瞭な今のアニメなどで「あんな風にサッと問題を乗り越えられたらいいな」と人間関係においても日々の生活においても、そんな理想像をもって社会に出たら、それは現実とのギャップは大きいでしょうね。アニメなどを通しての事前学習で「あまりに困難なしが人生」「スローライフが簡単に送れる」と学習しているようなものですから。

参考)昨年放送されたアニメで「16bitセンセーション」というのがありました。
かつてのような長編ストーリーの美少女ゲームを自分でも作りたいと憧れてゲーム会社の社員になった主人公の女の子。
でもそんな長いゲームは今時流行らない、ということでも今のゲーム業界に失望して・・・・というお話。
これも詳しく話題にしたいところですがこれも別の機会に・・・・
一つ書いておきますと、クライマックスで問題にされていたのが「人間の想像力」
これがどんどん人々の心から失われていくというのは、この雑感の上でも大事なポイントです。


ゲームについての具体的なことは、近いうちにブログの方にかくかもです。
その際はツイッターの方でお知らせします。

HP、ブログとも更新情報はツイッターで行っていますので、よろしかったらフォローをお願い致します。
駿煌会×上原輝男記念会 ツイッター
 https://twitter.com/syunkoukai?lang=ja



だからといって今更今のアニメ業界に対してかつてのような壮大な物語を制作せよ、なんていう非現実的なことは言いません。
今のアニメなどをみる場合には、これは「ダイジェスト」「あらすじ」なんだということで、表向きには描かれていない部分を、それこそ描かれている事実をもとにあれこれと想像してほしいなと思います。そこれこそ前回書いたような事実をふまえての可能性の探求のノリです。

観ているアニメすべてにやれなんてもいいません。
お気に入りのアニメについて、時には繰り返しみながら、こうかもしれない ああかもしれないと。
そしてそれを誰かと語り合えたらなおいいですね・・・・どっちが正しいとかそれは変とかすぐに判定しないで・・・「それもアリか!」って。

*次回から方向を大きくかえて「早期英語教育」という観点からコミュニケーションについて書く予定です。